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●学年クラスの近況【昭和38年度卒業】
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2022年10月20日 掲載
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天草倉庫の思い出(昭和38年度卒業 佐藤 千鶴代)
ある日の役員会での事、会も終わりに近づいた頃に「ネェ! 天草倉庫を覚えてる?」の一言についつい興じてしまい、今回会報に思い出を寄せることになりました。
(思い出その1)
多分、私が2歳前後の頃、夕飯の支度を終えた母がこっそり家を出ていく姿に気づき後を追った。母はそんな私を可哀そうにと思ってか背中におぶうと向かった先が天草倉庫であった。
倉庫の裏側からこっそり覗いてみると布が張られ、かすかに揺らいでいた。子ども心にその垂れ幕にはきらびやかな映像と静かな闇に響く音響があり、驚いた覚えがある。
中の様子を見るだけですぐに家路に引き返したが、その日の帰り道、母の背中から見上げた夜空の星の輝きがとても綺麗だったことを記憶している。
(思い出その2)
多少物心がつき、あちこち出歩くのが楽しくなった私は、近所の普段から親しくし可愛がって頂いている小父さん、小母さん、その娘の大の仲良しYちゃんと一緒に天草倉庫に映画を観に出かけた。料金を支払ったのかどうかはよく覚えていない。倉庫内では茣蓙に座って観ていた。当時はチャンバラや三度笠など流行りで大川橋蔵や美空ひばりが出演していた。悪者が退治される場面になると観客から大きな拍手が沸き上がりとても楽しかった事を覚えている。また興に乗っている最中に突然 “バチン” という音と共に倉庫内が真っ暗になりがっかりする場面も。 “ガラガラ” と回るフィルムの音と共に懐かしい思い出である。
(思い出その3)
その昔、天草倉庫なのかその敷地内であったのか記憶が曖昧であるが保育園? があったように記憶している。
兄が通っていて、妹の私も保育してもらったようでかすかに遊んだ覚えがある。兄はとてもいたずらっ子で知能犯、保育園の床下にホースを持ち込み放水したとかで、母が大変困っていた様子が今思い起こすと微笑ましい。(思い出その4)
天草倉庫はある時期まで出入り自由、お隣の大神宮の社と同じく子どもたちの格好の遊び場であった。大人に怒られることもなく出入り自由、舞台に上がったり下りたり友達とかくれんぼや追いかけっこをして日が暮れるまで遊びに興じていた。
ほのかな天草の香りが懐かしい。
(思い出その5)
天草倉庫の前は “ひろば” になっていて、例年お祭りになると集合場所となりまた余興のための舞台が臨時に組まれていた。
大神宮のお祭りには、だしの牛の背にやぐらが組まれ、可愛いお稚児さんが乗っていた。
八幡神社までだしを引くと子どもたちにはご褒美のお菓子が配られとても楽しみにしていた。
祭り後には、舞台で演芸会が催され、地元の青年団の中には小中学校の先生方も加わり劇が演じられた。普段接している先生方のまた違う一面を発見し興味津々であった。
(思い出その1)から(思い出その5)まで思い出を綴ってみるとその当時の事がよみがえり景色や人物、人の息づかいまでが身近に迫ってきてとても懐かしく思い出に浸ることが出来る。当時は、人と牛とが道を行き交うのどかな風景とゆったりとした時間が流れており、私自身の大事な原風景となっている。温かい八丈島の人情の下で心豊かな情操を育まれ、自然の優しさと厳しさを感じながら成長してきた。八丈島の荒々しい岩肌に打ち付けられる波の音、八丈太鼓は今も私の体の中に強く響き励みとなっている。八丈島に生まれ育ったことを有難く誇らしく思う。
風光明媚な八丈島の自然は今また注目され海や山へと観光客の人気を博している。
これからも八丈島の未来がますます明るく輝かしいものでありますよう心から願っている。
●会報編集局:護神天草倉庫余談(島言葉)へ
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