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●学年クラスの近況【昭和41年度卒業】 2022年10月20日 掲載

私達(ワイら)の同窓会(昭和41年度卒業 鈴木 茂)
高校を卒業して上京、神奈川県から始まり千葉県と関東住まいをしていた。
27歳で転職を経験し、それから50歳まで黙々と機械関係の仕事人間として人生を過ごしていた。そして、それまでは島の仲間とは無縁の生活をしていた。
しかし、50代のあるときの夜、電話が来た。

私「もしもし」
M「しげる君か!ワイのこと覚えてろか、Mだよ」
私「おーMちゃんか!!!」

突然の電話で驚いたのと同時に頭の中の記憶がグルグル回り始めた。
富士中時代であるが、彼の家は通学路に面してあり、道側に彼の部屋がある。
帰り道、僕は道端で立ち止まり、彼が部屋にいるか中の影を確かめる。
『居たっ!』(心の声)その後「Mちゃん、居ろかー」と僕は呼ぶ。
そうすると窓がガラガラと開き「あんどう?」と返事、その後はおしゃべり
タイムと言った具合である。そして30分ぐらい学校行事の話とかをする仲良し友達なのである。

彼の電話を受けた途端、あの時の足元の砂利の感触、日差し、風の匂いが30年の時を経て舞い戻ってきた。懐かしい!

M「そいでのー」
  Mちゃんの声と話し方は昔と変わらない。
僕「うん」
M「三根会に出んない?」
僕「あんまりのー、分かりんなっきゃ、あだんするかの」と言いつつ
  Mちゃんとの懐かしさで心地よくなっていた。
M「わいが幹事だからよー、しげる君もでこ」
  モチロン心は決まっていた。
僕「Mちゃんに会えるんだった行くわ」
これが、三根会の始まりである。

三根会で会った同級生達、最初は誰だか分からなかったが話していくうち、嘘みたいに分かってくる。そして小中学校生時代にタイムスリップするのである。もう50歳過ぎなのにそんな事は忘れてしまって同級生としかできないかけがえのない時間を過ごすのである。そして、先輩、後輩、親戚、近所、とその輪は広がっていった。

Mちゃんがきっかけで参加するようになった三根会。
その後、彼の呼びかけで近い学年の「ほーべー」達が集まる親睦会も年末にあり2回ほど参加するようになった。これも毎年恒例だったみたいだ。
だったみたいだ。何故そんな言い方をするかと言うと、久しぶりのMちゃんとのお付き合いも10年経つか経たないかのとき、突然、亡くなってしまったのである。
寒い日に風呂に入るとき血圧が上がって倒れる、あれ、である。
突然知らされたのだから信じられなかった。

Mちゃんにはずーとダラダラと気持ち良く付き合っていたかった。
あの居心地の良さ、特に何するわけでも無いのだけれど隣りにいるだけで懐かしくて落ち着けるのだ。
昔のこともよく知っていて
M「あのとき〇〇〇〇だったーのー」
僕「へー、しょくなかったよ、そごんか」
てな、会話であるが気兼ねなく心地よいのである。
ありがとうMちゃん、ワイは悔しきゃよー。

それから僕も同窓会に積極的に参加するようになった。
ワイらの同窓会は毎年、三根会に集まることである。
そして『時間が足りなくて二次会』『楽しくて三次会』と、終電そっちのけで仲間との時間を過ごすのである。
三根会の皆さんどうですかね、「ウンそごんだら」と頷いて欲しい。

そして島では毎年8月12日に集まって同窓会が開催されている。
50才、60才まで仕事人間で、お盆となると会社ではお客様の機械メンテナンス工事が多く入り、シフトで数日出社しなければならずこの同窓会には行けずじまいだった。毎年同窓から電話がかかってくる。「今年もやるけど来られんない?」
「仕事で行けんなっきゃ、かんべんのー」を何年も続けていた。
本当に幹事には悪かったと思っている。

今もフルタイムで仕事をしているがここ数年は働き方改革で会社自体のお盆工事も少なくなり、有給も率先して取れるようになった。
しかし、コロナの影響で数年動けずじまい、この思わぬ仕打ちにはがっくりである。最近はウィズコロナ体制になりようやく自由な行動の兆しが見えてきた。
島の同窓会には積極的に出るようにし、同時に島のお盆を楽しみたいと思っている。
島の同窓のみんなへ、
「持ち回りの幹事が大変と聞いとーが、頑張って続けとうよー」
                         ※Mちゃんに捧ぐ

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