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●学年クラスの近況【昭和39年度卒業】 2025年5月18日 掲載

三根小学校 恩師、自省、そして今(昭和39年度卒業 菊池 清明)
 三根小学校の思い出を語るとなると、いの一番に出てくるのは一人の恩師との出会いです。普通、人生における恩師との出会いは、中学校、高校、さらには大学という順番で多くなるように思う。私の場合、これまで多くの恩師との邂逅があり、今の自分の存在の多くをそうした先生方に負っている、という感懐をもっています。
 しかし、多くの恩師の方々の中でも、今の自分の最も根幹的な部分、それも精神的、そして学問的なコアとなったものは、三根小学校の時の一人の恩師によって形成されたといっても過言ではありません。
 その恩師の方は、菅原房先生。小学校五年生と六年生の時のクラス担任をされた方です。先生は、三根小学校の近くの一軒家に、私たちより二学年下の息子さんと二人で住まわれていた。先生は、遊びしか知らない当時の私たち、とりわけ神港地域の取り扱いが難しかったであろう悪童たちに、毎回、小テストを課した授業を通して、日々の勉強の大切さを無言で、そして厳格にご教示してくださった。何か教訓的な、あるいは説教がましいことを言うわけでもなく、漢字と算数の問題をいつも授業初めにテスト形式で実施し、成績が伸びた生徒には手放しで褒めてくださる。その誉め言葉にのせられて、少しながら勉強に目覚めた生徒の中の一人が私でした。
 ある日、先生が体調を崩されて学校を休まれた時、悪童数人と一緒に道端に咲く小花を摘んで、ご自宅にお見舞いに行ったことがありました。先生はたいそう喜ばれて、私たちにお菓子とお茶をご馳走してくださった。帰りに先生は泥まみれの一人一人の手を両手でしっかりと包みこむように握ってくれた。その時、先生の目には涙があふれていた。先生の涙顔とそのひと時の光景は、もう半世紀を超えても、鮮やかに蘇り、そしてなぜか何とも不思議な思いが胸にこみあげてきます。
 三根小学校を卒業してから、菅原先生と連絡を取ることはありませんでしたが、私の母は、先生が亡くなるまで年賀状や時折書信を取り交わし、私の近況なども伝えていたようです。私が大学院を修了して国立大学に奉職することが決まったことを伝える母の手紙に、喜びあふれる言葉の返信をいただき、母はその書状を終生大事にしておりました。
 菅原先生と同じように教師の道を進んだ私は、今、教え子から届く、成長して活躍する報せが、教師にとってどれほど嬉しいものかはよく理解できます。その感謝の思いを直接、菅原先生にお伝え出来なかったことは、かえすがえすも残念であるし、己の至らなさに実に心から恥じて、慙愧に堪えません。
 三根小学校は、故郷の幼き頃の思い出と人生で最初の学びの機会を与えてくれたというだけでなく、自省と今の私の人生の道標を授けてくださった、かけがえのない方と出会えた大事な、大事な場所でもあります。

菊池清明(言語文化学博士):
オックスフォード大学上級客員研究員、東京都立大学、立教大学教授を経て、現在、関西外国語大学学長。

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