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●学年クラスの近況【会報編集局より】
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2025年5月18日 掲載
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三根小学校の始まり(会報編集局より)
八丈島の子供の教育はいつ頃から、どのように始まったのでしょうか? 興味ある題材です。
八丈島では宇喜多秀家を始めとして、島に流された初期の流罪人たちは、いずれも政治犯や思想犯が多かったため、その中には学者、僧侶、医師、武将らが含まれており、いずれも当時の有識者で社会的地位や見識、人格の備わったものが多かったことから、同じ流罪人といっても、島民から敬愛され、師弟の教育もこれら流人の手に委ねられていた。流罪人も島で生活を維持していくために、その生活手段として島民の師弟を預かり、
手習い師匠となり、読み書き、そろばんなどを教えていたという。
いずれにしても、鳥もかよわぬと唄にも歌われた絶海の孤島八丈島が、他の同じ条件のへき地、離島よりも教育が開発され、明治5年(1872年)の学制発布の時点において、すでにそのまま、その軌道に乗せることができる状態にあったことは、やはり、流罪人の一つの貢献であったことを認めなければならない。
そして明治の時代となってからも流人等の学識者を師匠とした寺子屋式の私塾があった。授業の形式内容は師匠任せで女児の塾生はなく、男児のみでその数も僅少であった。そこは三根の孫兵エ部落の故小宮山トイ女の経営したものである。その後、トイ女は女児の塾生も募集し、お針(洋裁)を中心とした教育も施した。このころの師匠は近藤富蔵、雨森スエの二氏が当てられた。
・明治5年
政府は学制を頒布し、全国に小学校の設立を呼び掛けた。それにより、我が三根においては地役人、高橋鉄之助氏が村民を勧誘し、川の平村民、持丸島左エ門宅を借りて夜学館を設立した。そこでは流客近藤富蔵、佐藤善蔵、大内正丸の三氏を教授に依頼した。然し、残念ながらこの夜学館は教授者間の意見不一致から不幸にも一年足らずで廃館になり、その後の明治6〜7年の空白を見るに至った。
・明治8年4月
地役人兼戸長の高橋鉄之助、副戸長高橋郡之助、村民一同を会して明治5年の政府の学令の布告に因り学校設立のことを説諭し、当時の副戸長浅沼喜蔵の養蚕室を借用して校舎に充て流客北島米吉、菅原蔵人の助成を得て、村役場書記、高番与一、村民、浅沼冬松等教授の任に当たる。曲がりなりにもこの年、明治8年に三根地区で学校が設立され、それ以来、今日まで三根小学校はたゆみなく150年の歩みを続けてきている。この年が三根小学校の開校の年とされている。
・明治14年
校地・校舎の狭隘をもって場所を、高橋鉄之進所有の宅地を払い下げて、川の平に村役場と合併の校舎を新築し、開校式を挙げた。その時の建築費、総計金、壱千余円にして内、地役人兼戸長の高橋鉄之助氏より金壱百円、副戸長高橋郡之助より金拾参円、村民有志からも、金弐百九拾六円拾四銭五厘(199名)の寄付を募り、新校舎を新築し、開校式を挙げる。
明治15年〜38年
その後も台風で傾いた校舎の改築や学校生徒の増加などにより、狭い校舎の増築、広い運動場の確保などを繰り返し、紆余曲折を経て明治39年に至る。
・明治39年
明治36年に府知事の許可を得て校地を字新田に移し、起工以来の新校舎がこの年、明治39年1月15日、ここに完成して開校の典を挙げて同日を開校記念日と定める。校地3千坪、校舎建坪286坪、その建築費は当時の金額で一万七千百八十九円。学校建設の賦役も相当なものであったという。そしてこの時建設された校舎は昭和37年まで57年の長い間利用され数多くの人材を輩出している。それは我々、三根会の参加者の多くがまさに親しんできた校舎でもある。卒業年度で捉えると昭和42年度卒までのクラスが通っていた校舎である。思い出深い三根小学校の木造校舎であった。
そして今年の令和7年は三根小学校の開校の年の明治8年よりちょうど150年の年に当たり、今年度は年間を通して三根小学校の様々なイベントが行われるということです。
資料:三根小学校創立百年記念誌・八丈島誌より
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